LOGINあのメッセージから、数日が経っていた。
コンペの下調べのために、黒瀬グループ関連企業が入居するビルへ向かったのは、木曜日の午後だった。
プレゼン当日に初めて足を踏み入れるより、一度見ておいた方がいい。エントランスの雰囲気や、周辺の空気を確認しておきたかった。
地下鉄の出口を上がると、初夏の日差しが眩しかった。
ビルは、駅から徒歩三分ほどの場所にあった。周辺のビルよりひとまわり背が高くて、入り口の前には黒いスーツの人影が絶えなかった。
そこを出入りする人たちを見ていると、説明会の日の柊さんを思い出した。
会議室で社員に向けていた、容赦のない声。なのに、電車の中で『忘れてください』と送ってきた、不器用な一文。
どちらも本物だと、今はわかっている。
私も今日、ここを仕事の場所として自分の目で確かめておきたかった。
エントランスの位置とロビーの広さを確認して、踵を返そうとした時だった。
「……例の件、あちらの担当者に話は通
結婚式の翌日。約束通り、二人で桜並木を歩いた。満開の桜が、頭上を薄紅色に染めていた。風が吹くたび、花びらが、雪のように舞い落ちてくる。「なんでついてくるの」振り返ると、少し離れたところに、葵と朔さんの姿があった。「いいじゃないですか、記念日なんだし」「そうそう。今日は、あなたたちがお見合いした大切な日じゃない」葵が、朔さんの隣で、にやにやと笑っている。言われて初めて、気づいた。そうだ。あの日も、四月のこの日だった。桜の季節に始まった嘘が、同じ桜の季節に、本物になった。偶然と呼ぶには、あまりにもできすぎている気がして、思わず柊さんの顔を見上げた。柊さんも、同じことに気づいたのか、わずかに目を細めていた。「知っていたんですか」「気づいたのは、今だ」そう言いながらも、その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。柊さんが、小さく息を吐いた。「外野は、放っておこう」「はい、そうですね」苦笑しながら、また前を向いて歩き出した。二人の気配は、少し後ろで、まだ賑やかに続いている。◇歩きながら私は、昨日の披露宴をふと思い返した。誠一郎さんが、涙ぐみながら祝辞を述べてくれたこと。『柚葉さんが来てくれて、この家は変わりました』その一言を聞いた瞬間、目の奥が熱くなって、隣の柊さんの手を、思わず強く握りしめてしまった。三年前、雨の夜に助けたあの人が、こんな風に、家族として私を迎え入れてくれる日が来るとは、想像もしていなかった。実の父の記憶をほとんど持たずに育った自分にとって、誠一郎さんの言葉は、ただの祝辞以上の重みを持っていた。城島さんが、会場の隅で、誰よりも早く拍手をしてくれていたこと。あの人らしい、控えめだけれど確かな祝福だった。そして──招待客の後方の席に、隆之さんが座っていたこと。主賓ではない、あくまで一人の招待客としての席だった。それ
朔さんがマイクを持って立ち上がった瞬間、隣の柊さんが、わずかに身構えたのが分かった。そして、案の定──。「兄がこんなに人間らしい顔をするようになったのは、柚葉さんのおかげです。以前は本当に、機械かと思うくらい表情が変わらない人だったので」会場が、どっと笑いに包まれた。「朔」柊さんが、小さく低い声で咎める。でも、その声にも、今日は棘がなかった。むしろ、少し照れているようにも見えた。「でも本当に、兄が誰かをこんなふうに温かい目で見る日が来るとは、思っていませんでした。柚葉さん、これからも兄をよろしくお願いします」朔さんが、深く頭を下げた。会場から、温かい拍手が起こった。隣で、柊さんが小さく息を吐くのが分かった。困ったような、それでいて満更でもないような、複雑な表情だった。◇続いて、葵がマイクの前に立った。手には、便箋を持っていた。読み始める前から、その手が小さく震えているのが見えた。「柚葉は昔から、『まあ、なんとかなるか』が口癖でした」葵の声が、会場に響いた。「でも本当は、なんとかなる自信なんて、なかったと思います。それでも前を向く柚葉を、私はずっと近くで見てきました」声が、途中で何度も詰まった。それでも、葵は読み続けた。「就職してからも、いろんなことがあって……正直、心配で仕方なかった時期もありました。増えていくため息も、無理な笑顔も、全部隠せてるつもりだったんだと思います。でも、柚葉はいつも自分の力で、ちゃんと立ち上がってきました」葵が手紙から顔を上げて、こちらを見た。「柚葉。今日からは、一人で『なんとかする』必要はないからね」その一言に、堪えていたものが、堰を切ったように溢れた。友人として、これまでずっと隣で支えてくれた葵。就活の悩みも、五年前の秘密も、すべてを分かち合ってきた相手。その葵から贈られる言葉に、涙が止まらなかった。「あ、りがとう…&helli
挙式を終え、チャペルを出ると、外はやわらかな夕暮れに包まれていた。冷たい空気の中に、桜の香りがかすかに混じっている。披露宴会場の重厚な扉が開くと、司会者の声とともに、盛大な拍手に迎えられた。会場を彩る白と淡いグリーンの装花、テーブルごとに飾られた小さなブーケ。先ほどまでの緊張とはまた違う、賑やかで温かい空気が満ちていた。シャンパングラスの触れ合う音、あちこちから聞こえる笑い声。今日という日を、たくさんの人が心から祝ってくれているのだと、肌で感じた。主賓席に着き、柊さんと並んで会場全体を見渡した。誠一郎さん、城島さん、村田さん、葵、朔さん、そして──母と姉の真帆。それぞれの顔を見るたびに、この数年間の出来事が、走馬灯のように胸に蘇ってくる。みんな、今日という日のために集まってくれた。そう思うだけで、胸がいっぱいになった。◇乾杯の後、和やかな歓談の時間が続いた。村田さんが、嬉しそうにグラスを持って席まで来てくれた。「西園寺、いや、もう黒瀬か」「まだ、自分でも少し変な感じです」「今日まで、色々あったな」村田さんが、しみじみと頷く。五年前の内部通報のことも、コンペのことも、すべて知っている人だからこその言葉だった。「これからも、うちで頑張ってくれるんだろう」「もちろんです」その短いやり取りに、これまで積み重ねてきた仕事の日々が、静かに温かく胸を満たした。◇ほどなくして、ケーキ入刀の案内が入る。三段に重ねられた純白のウェディングケーキの前で、柊さんと二人、ナイフに手を添えた。「緊張しますね、こういうの」「そうか?」「柊さんは、余裕そうですね」「余裕があるわけじゃない。表に出さないだけだ」その返しに、思わず笑みがこぼれた。ナイフを入れる瞬間、会場から一斉にカメラのフラッシュが光る。切り分けられたファーストバイトの一口を、柊さんが少し
牧師の前で、まず、決まった誓約の言葉が読み上げられた。「健やかなる時も、病める時も、富める時も貧しき時も、互いを愛し、敬い、慈しむことを誓いますか」「誓います」柊さんの声が迷いなく、はっきりと響いた。「誓います」自分の声も、思ったよりしっかりと出た。その一節を聞きながら、これまでの日々が、走馬灯のように蘇った。嘘から始まった関係、五年前の重荷、姉との確執、柊さんの父親との溝。数え切れないほどの試練を、一つずつ乗り越えてきた道のりだった。◇決まった誓約の後、牧師が柊さんに向かって、静かに頷いた。「新郎から、新婦へ、お言葉があるそうです」その言葉に驚いて、柊さんを見た。事前に、そんな話は聞いていなかった。柊さんが、私の両手をそっと取った。「柚葉」いつもより、少しだけ掠れた声だった。「三年前、あなたを探し始めた時、俺が求めていたのは、感謝を伝える相手でしかなかった」会場が、静まり返っていた。「でも、あなたと過ごすうちに、それだけじゃなくなった。あなたの、仕事に向き合う顔、家族のために戦う強さ、そして──誰よりも不器用に、まっすぐな優しさ」柊さんの声が、わずかに震えた。「父とは長い間、うまくいっていなかった。人を簡単に信じられなくなっていた時期もあった。それでも、あなたと出会って、また信じてみたいと思えるようになった」「柊さん……」「これからも、仕事も、家族のことも、簡単ではない場面が、きっとある。それでも……もう二度と、あなたを一人にはしない」その一言に、目の奥がこれまでで一番、熱くなった。堪えていた涙が、頬を伝った。◇牧師が、こちらに視線を向けた。「新婦からも、お言葉を」事前に聞いていなかったのは、私も同じだった。でも、不思議と、言葉はもう胸の中にあった。震える両手で、柊さんの手を、握り返した。「柊さん」参列
準備が整った頃。式のプランナーから、最後の確認があった。「バージンロードは、どなたと歩かれますか」その問いに一瞬、言葉に詰まった。実の父とは、物心つく前に縁が切れている。頼れる相手は、他に一人しか思い浮かばなかった。控室の外で待っていてくれた誠一郎さんに、私はそっと声をかけた。「誠一郎さん。……一緒に、歩いていただけませんか」誠一郎さんが一瞬、驚いたように目を見開いた。それから、目元に優しい皺を寄せて、ゆっくりと目を細めた。「光栄です」短い返事だった。でも、その声には隠しきれない喜びが滲んでいた。「三年前、あなたに助けていただいた恩を、こんな形で返せるとは思っていませんでした」「恩を返すのは、私の方です」誠一郎さんが、静かに首を振った。「あなたがこの家に来てくれたことこそが、何よりの恩返しですよ。……柊を、あいつの心を救ってくれて、ありがとう」その一言に、鼻の奥がつんと熱くなった。◇チャペルの扉が開いた。パイプオルガンの荘厳な音が、静かに響き始める。祭壇までまっすぐに伸びるバージンロードの両側に、真っ白な胡蝶蘭とグリーンが、丁寧に飾られていた。誠一郎さんの腕に、そっと手を添えた。コツン、コツンと、誠一郎さんがつく杖の音が、オルガンの音色に混じって静かに響く。私の歩幅に合わせるように、一歩一歩、丁寧に足を踏み出してくれていた。最前列には、母の姿があった。背筋をすっと伸ばし、込み上げるものを押さえるように静かに目元を拭いながら、温かな眼差しで私を見つめている。目が合うと、胸の奥から熱いものが溢れそうになった。その隣で城島さんも、いつものように静かに、でも目元だけを少し赤くして深く一礼してくれた。後方の席、招待客の一人として──隆之さんが座っていた。私と目が合うと、小さく頷いてくれた。それだけだったけれど、そこには言葉以上の十分な重みがあった。バージンロード
数日後。あの雨の夜、記憶を取り戻したことを伝えると、柊さんはしばらく何も言えずにいた。三年間、探し続けてきた相手が、目の前でその夜のすべてを語る。聞き終えた柊さんは、私の手を強く握りしめ、「よかった」とだけ、掠れた声で言った。それ以上の言葉は、必要なかった。そこから先の日々は、驚くほど早く過ぎていった。結婚式の準備、両家の顔合わせ、式場選び。誠一郎さんは孫の晴れ舞台に誰よりも張り切り、隆之さんも、ぎこちないながら準備を手伝ってくれた。姉は「あたしが仕切ってあげる」と、式のあれこれに首を突っ込み、母も少しずつ穏やかな顔を見せるようになっていた。そうして迎えた、四月。桜の季節だった。◇結婚式当日。控室の鏡の前に、白いドレス姿の自分が立っていた。かつて、姉に化粧品とドレスを抱えて押しかけられた、あの日を思い出す。あの時は、自分ではない誰かになるための衣装だった。名前を偽り、笑顔を作り、誰かの代わりを演じるための白。今日は──自分のための衣装だった。鏡に映る自分の姿を見つめながら、これまでの道のりが、胸に込み上げてきた。ドレスの裾に施された、細かなレースの模様。柔らかく巻かれた髪。何度も試着を重ねて選んだ、このドレス一着に、これまでの人生のすべてが、そっと縫い込まれているような気がした。◇控室のドアが、勢いよく開いた。「柚葉、めちゃくちゃ綺麗……ちょっと泣きそう」葵が、目を潤ませながら駆け込んできた。「まだ早いよ」「無理。もう泣く」笑いながらそう言う葵の後ろに、朔さんの姿が見えた。「俺も見たかったのに」とぼやきながら、葵に部屋の外へ押し出されていく。その光景に、思わず頬が緩んだ。◇そこへ、控えめなノックの音がした。姉が、顔を出した。薄化粧で、いつもよりずっと柔らかい表情をしていた。「&
一段階低くなった姉の声が、耳の奥に刺さった。『あたしが今の彼との話をまとめるまで、黒瀬の目を逸らし続ける必要があるの。黒瀬家とうちの家、色々と込み入った事情があるのよ。あんたが勝手に終わりにして、黒瀬側から実家に何か連絡でもされたら、全部おじゃんになる。わかる?』「わかってる。でも──」『断るなら、五年前のこと、全部バラすから』返事も待たず、音が消えた。また、五年前のことで脅されてしまった。昔から、姉は私の弱いところを探すのが上手かった。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
『先程は、お時間をいただきありがとうございました。──黒瀬柊』彼からのメッセージは、それだけだと思っていた。数秒後、同じ番号から、もう一通届いた。『次回、ご都合の良い日を教えていただければ、合わせます』画面の番号を、もう一度確かめた。間違いない、黒瀬さんからだ。お見合いの書類に載っているのは、姉の連絡先のはず。さっき、私が口頭で伝えた番号──黒瀬さんはそちらに送ってきたのか。「合わせます」という一言。感情がない、と思った。温かくもなく、冷たくもなく、ただ的確だ。
それから、当たり障りのない会話が続いた。趣味のこと、好きな食べ物のこと。プロフィール帳に書くような、差し障りのない質問と回答。姉から叩き込まれた設定を頭の中で繰り返しながら、ボロが出ないようになんとか答え続けた。ところが──。「お仕事は、普段何をされているんですか?」ひどく自然に投げかけられたその質問に、張り詰めていた頭が一瞬でフリーズし、口が勝手に動いた。「広告の……プランニングを──」しまった。姉は、ファッションモデルのはずだ。「……っ、いえ。今はモデルの仕事を少しお休みしていて、その……裏方のお手伝いのようなことを」取り繕うように、慌てて言い直す。顔に熱が集まるのを感
ゆっくりと扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まりそうになった。高い天井に広がる、クリスタルのシャンデリア。香ばしいコーヒーの香りと、白く気高く咲き誇る大輪の胡蝶蘭。磨き上げられた大理石の床に、自分が履いている安物のヒールの音がカツカツと不躾に響く気がして、それだけで萎縮しそうになる。場違いにもほどがある……。心の中で小さく呟き、緊張で強張りそうになる手を、そっとドレスの上の膝に置いた。ここで怯んだら、一瞬で「偽物」だと見破られてしまう。案内された席に着いた瞬間、背筋が自然と真っ直ぐに伸びた。膝を揃えて座る。手をテーブルに乗せない。視線を落としすぎないように前を向く。







